2014年7月11日(金)

昭和を追い求めていたら和製ラブサウンズにたどりついたの巻


 街中でふと気がつくと、レコードがたくさん入った袋を両手いっぱいに抱えて歩いている、ということがよくあります。用事のついでに入った古道具屋かなにかでレコードのある一角を見つけ、たまたま掘り出し物を大量に発見してしまったものと思われます。買うのは日本でプレスされたレコード、国内盤ばかり。主

に洋楽の日本盤、そして邦楽ということになりますが、それにしても国内盤にそこまでこだわるのは一体どういうわけでしょうか。
 最近、ようやく大人といえる年頃になってしみじみ思いました。僕を含む昭和の最末期に生まれた世代は、年長者から子供扱いされるのは当然として、年下からは昭和生まれというだけで

即座におっさん扱いされてしまう、そういう宿命を背負っているのでは? だから物心がついていなかったとはいえ、生まれた時代のことをなにも知らないのはどうも許せない。そこできっと本能的に国内盤とそこに刻まれた音に対して〝昭和なるもの〟を求めているのだろう、と。
 今回リリースされた「ラブサウンズ・スタイル」には、ちょうど自分がイメージしていた昭和がたくさん詰まっていました。おそらく当時は喫茶店やホテルのロビーといった場所でかかっていたものでしょう。イージー・リスニング、ポップス、映画、バカラック、フランシス・レイ、というカテゴリに分かれてはいますが、収録曲はどれも永遠のスタンダード、おなじみの曲のヴァリエーションを楽しむコンピになっていま

す。曲は知っていても聴くのは初めての音ばかりですから、曲目を見ながら、そのアレンジが自分にとって〝当たり〟なのかどうかを期待する、そんなワクワクも楽しかったです。曲によってはストリングスやハープ、さらにエレクトーンが過剰にフィーチャーされたものもありますが、そのバランスの悪さも「これぞ昭和!」と僕には1周回って斬新に聴こえました。打ち込みのサウンドが気恥ずかしく感じる今の時代では、丁寧に録音された生音、ということだけでも実に贅沢に感じるのです。
 さらに大きな特徴として、収録曲の半分近くが匿名グループの演奏であるということが挙げられます。演奏者に目をやると、中古のレコードを漁る日々の中で見かけた名前もありましたが、正体がわからないので正直

手が出しづらい、手には取るけどつい敬遠しがちなグループばかりです。このCDでもカーペンターズのカヴァーをしている〝カー・ペインターズ〟がまさにそれでした。まさか、つのだ☆ひろのバンドだったとは(あのとき買っておけば!)。他に調べてみればすべては追い切れないにしても、まだまだ知られていない事

実が今回のリリースを期に判明するはずです。しかし現在までに価値が認められている盤はごく一部で、例えば筒美京平さんを始めとする著名な作曲家や、このCDでも大活躍の猪俣猛さんら名プレイヤーがリーダーとなっている、出自のハッキリとしたものです。それでなければ、ジャケットに写っているお姐チャンが

かわいいとか、水着であるとかヌードであるとか……残りは身元不明の哀しさ、今もどこかの安売りの棚で眠っているか、あるいは値段がつかないからと言って破棄されてしまっているはずです。これらの大量の音源が、音楽としての価値が再発見される前に、昭和から平成へと移り変わる中で急激な勢いで過去の遺物と化していったのです。
 〝再発見〟と書きましたが、もしかするとそもそも最初から発見されていない可能性も充分にあります。今回数少ないオリジナル曲として収録された「小川宏ショーのテーマ(朝の調べ)」に代表されるように、これらの音源は昭和のポピュラー志向、洋風志向(それもお上品な)が大きく反映されたものであったはずです。中古レコード店にイージー・リスニングのコーナ

ーが大きく幅を利かせているのも、当時よく売れていたことの証明に他なりません。ですが、熱狂的に聴き込まれていたのかどうかは個人的には疑問です。先に書いたようなBGM用途で終わっていたように思うのです。しかもこのCDの楽曲はいくつかの例外を除き、すべて日本人による演奏です。本来、洋楽作品に対して使われていた〝ラブサウンズ〟の向こうを張って作られた、いわば〝和製ラブサウンズ〟なのです。
 日本ではイージー・リスニングの大御所、パーシー・フェイスはCBS(日本コロムビア→ソニー)、ポール・モーリアはフィリップス(ビクター→日本フォノグラム)からリリースされていました。今回のシリーズはいわゆるそんな〝本命盤〟を外した選曲ながら、キングレコードの音源だけ

でCD5枚、全100曲が陽の目を見ました。監修・選曲を手掛けた本誌編集長は、それでもまだまだ〝氷山の一角〟だと言います。僕も今後は日本各地で眠っている和製ラブサウンズという宝の山に向かって行くことになると思いますが、今はしばらくこのCDに浸り、どこまでも香ってくる昭和の匂いを感じていようと思います。
(真鍋新一=編集者見習い)
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ラヴ・サウンズ・スタイルI〜イージー・リスニング編/ラヴ・サウンズ・スタイルⅡ〜ポップス編/ラヴ・サウンズ・スタイルⅢ〜映画音楽編(写真上)/ラヴ・サウンズ・スタイルⅣ〜バート・バカラック作品集/ラヴ・サウンズ・スタイルV〜フランシス・レイ作品集(写真下)/キングレコードから発売中。




つげ義春を平成の世に


 87年を最後に永く創作活動を休止している漫画家・つげ義春氏の近況を、先頃発売された『東京人──ガロとCOMの時代』(都市出版、二〇一四年・七月号)のインタビュー記事で知ることになった。作家・川本三郎氏の問いに応えるかたちで、氏はこう語り出す。「現在は息子が精神を病んで苦しんでいるので、その

世話と買い物や食事作りで一日が過ぎてしまいます。(中略)息子は二十数年間他人との関係がなく、友だちも一人もいないですから、この現実社会をまったく理解できず、そのため物ごとの認識や判断が現実離れして、別の世界に住んでいるような状態なんです」。
 私がつげ義春の名作『ねじ式』と出会ったのは、作

品が発表されてから約8年後、小学校低学年から高学年へ上がる端境期であったように記憶する。高円寺の小さな書店店主の息子として生まれついた私は、在りし日の昼下がり、自室階下にある倉庫の片隅で『ねじ式 異色傑作選1』なる一冊の単行本を発見することになる。 血液がしたたる片腕を押さえ町を往く面妖な男。根拠や辻褄が整合しないストーリー。悪夢をそのまま写したかのような、この世ならぬ舞台背景。そして、唐突な性描写──。触れてはならぬ、奇妙で恐ろしい大人の漫画、というのが、十にも満たない私の『ねじ式』を読んだ後の感想だった。ページに物理的に触れてしまった自らの指を汚らわしいとさえ感じ、読んでしまったことに対する奇妙な後ろめたさに苛まれる日々が続いた。が、そ

こまで忌避した存在であるにもかかわらず、私はその後もこの単行本のページをめくることになる。両親に気取られないよう、あるいは店舗に品出しされないよう、私は細心の注意を払いこの本を倉庫の秘密の場所に隠しさえした。言うまでもなく、『ねじ式』には曰く言い難い、何度も読み返したくなるような、心まさ

ぐられる魅力があった。
 氏はインタビューの最後を次のように結ぶ。「もし息子が元気であれば、とっくに結婚をして家を出て、私は一人になってしまう。そうなったら、私は一人で生きていけなくなる。(中略)意識的に隠遁する孤独とは別で、日常における一人暮らしは生きられない」。
 自伝的作品『別離』を最

後に筆を折って26年、奥方を亡くして15年という歳月が経過した今、『無能の人』など、氏の作品にたびたびモデルとして登場したご子息が心の病を患っているというのは甚だ憂慮に堪えない。川本氏は「現実のつげさんは堅実な生活者である。私小説によく出てくる、だらしない男とはまったく違う」という。が、この記事を読んで、あらためて私は、つげ義春は、やはりつげ義春であったと感嘆する。かつての作品から想起されるイメージそのものの人だと感ずる。だからこそ、今私は願う。漫画でなくとも構わない、エッセイでも、日記というかたちでも、氏の特異な視線がとらえたご子息との日常を今ひとたびの霊妙さをもって表現して欲しいのだ。
(関根敏也=リヴル・アンシャンテ)