2015年9月18日(金)

 
古川タクの“なにか面白いことないか?”#58


 アンクルトリスの柳原良平さんが亡くなられた。時の流れを止められない事くらいは承知しているつもりでも、憧れた各分野での先輩方が次々と姿を消されるのはやはり辛い。
 実はまだ大学生だった頃、「宣伝会議」という広告雑誌でCM宣伝会議賞というのがあって、プロ部門の他に一般公募でCM絵コンテ

を募集していて、興味を持ったボク、鉛筆画を出せばいいというお手軽さもあって応募してみたら、なんと佳作を受賞した。その時の審査委員が柳原さんで、発表の誌面で自分の名前を初めて見て嬉しかった。
 そう、柳原さんはボクを初めてこの世界に手招きしてくれた人だった。後年この話をご本人にすると、

「へー、そんな事があったのか」と全く覚えていらっしゃらなかった。
 やがて久里洋二、真鍋博と共に「アニメーション3人の会」を青山の草月会館にて始められ、ボクらの世代が、わっとアニメーションの世界に引き寄せられる。久里工房時代にアニメーションフェスティバル京都公演に久里、柳原、にお供し

た時の事だ。ボクの習作短編アニメを褒めてくださって、「きみサンアドに来ないか?」と突然お誘いを受けた。山口瞳さんがトリスのコピーを書いておられた銀座7丁目あたりにスタジオがあった日の出の勢いのサンアドだ。久里さん、草月アートセンターの奈良さんにも相談して結局ボクはもう少しアニメーションのことをやりたいと思って、丁重にお断りした。あの時移っていたら今は何をしていたか? 人生って面白いですね。
 その後、漫画家の会で旅行や宴会で楽しい柳原さんともなんどもご一緒した。さすがのサントリー、飲みっぷりが実に男らしい! ウィスキー(もちろんサントリーに限る)をアンクルトリスそのままの姿で急ピッチで何杯もお代わり、突然酔いが回って、直立不動

のまんまバタンと倒れて本日はおしまい。ところが、翌朝早くから洗面所でスッキリ爽やかな笑顔を振りまきながら「よおっ! 遅いぞ」とばかりにせっせと歯を磨いていらっしゃる。船長姿が実によく似合った柳原良平さん、人生航路のナビゲーター役ありがとうございました。
※上の画像は本サイト連載の「ヒトコト劇場」より、アンクルトリスのパロディ。
(古川タク=アニメーション作家)



気まぐれ園芸の愉しみ
和を重んじる花、コスモス

 薄紅色の花びらは柔らかな陽の光を透かし、線香花火のように細やかな葉はなよなよと風に舞う。
 秋空を見つめながらたおやかに花開くコスモス。その姿はどこか物悲しく、これぞ日本の秋の情景、と思わせる。誰が名づけたのか知らないが、日本名を「秋桜」というのもうなずける。
 しかし、秋の季語にもなっているこのコスモスが、実は外来植物だということをご存知だろうか。
 原産地はメキシコ。やが

てヨーロッパに渡り、日本にやってきたのは明治時代だという。なんでも東京藝術学校(現・東京藝術大学)で教師をしていたイタリア人の彫刻家・ラグーザが祖国から種子を持ってきたのがきっかけだそうだ。
 そう、思いきりラテン系なのである。茅葺き屋根の民家の軒先や田んぼのあぜ道に咲く姿を思い浮かべて、古くからある日本の伝統的な風景などと考えていたなら、見当違いも甚だしい。
 よくよく考えてみれば、

「コスモス」というカタカナの名前があるのだから、外国に由来することは言わずもがなだ。でも、その奥ゆかしく繊細な風情があまりにも日本人好みなため、陽気で情熱的なあの大陸からやってきたとは到底思えない。
 しかもこの奥ゆかしさは、コスモスの生育の特徴にも見られるのだ。
 コスモスは直まきでも簡単に育ち、やせ地でも多少の日陰でも失敗することのない、元来丈夫な植物である。
 そのせいか、「秋の庭の主役にしてあげよう」と、一番見栄えのいい場所に苗を移し、一本一本を大事に育てようとするとかえってうまくいかない。こちらの期待に応えようと頑張りすぎてしまうのか、ほうぼうに枝分かれし、頭が重くなりすぎて倒れてしまうのだ。

 むしろ、畑のわきなど、肥料もろくに混ざっていない荒れた土の上にバラバラと種子をまいて、芽が出ても間引きもせず放ったらかしたほうがしっかりと根付く。そして、茎を伸ばし始めると、隣り合った株どうしが支え合い、倒れることもなく見事な群生となる。
 一株一株が独立して美しさを競い合うのではなく、控えめな花々が集まることで互いの存在感を高め合う。これこそまさに、個性の主張よりも和を重んじる日本人の性質と同じではないか。来日してたかだか百三十年ほどの植物が、これほど日本の風土に溶け込んでしまったのも納得だ。
 そういえば「コスモス」という名前は、メキシコからスペインに渡った際、スペインの植物園に勤めていた人物が名づけたらしい。元はギリシャ語で、「調和」

「美」「宇宙」という意味を持つ。
 花びらや葉が整然と並ぶさまを見て、そう名づけたのだろうか? 今となっては、何をもって「コスモス」と命名したのかはわからないが、はっきり言って名づけたそのスペイン人のセンスを疑う。
 そんな壮大でスペーシーな名前は、この植物には似合わない。名前が重すぎて

倒れてしまいそうだ。「秋桜」のほうがよほど植物の本質を突いているように思う。
 庭ではなかなか主役になれないのが残念だが、公園や河原などでは半ば雑草化して大群生になっているところも少なくない。百年後には、広大なコスモス畑が「日本の原風景」になっているかもしれない。
(髙瀬文子=編集者)



自主制作マンガ界のナイーヴマスター参上


 おかげさまで、泣けると宣言された本や映画や歌で泣けたためしがない。ストーリーに麻薬カルテルが絡む映画は、たいがい泣けるっていうのに(個人の感想です)。世の「きれい」の大半はきれいごとであるように、「泣ける」ものの大半は泣きごとに過ぎないからさあ、泣きごとにつきあっていらんないのよ。おそらく俺は、人に涙を流させまいとしているような佇まいに、つい泣かされてしま

うのだ。
 森雅之はデビュー40年に届かんとする、処女作品集『夜と薔薇』(1979年/清彗社)に触れてシビレたものとしては、常に忘れることのできないマンガ家。何年前だったか、スカートの澤部渡と初めて話したとき、この本が好きだと言った。高じて、彼の名作アルバム『ひみつ』のジャケットは(CDとLPそれぞれ)森雅之の描く少女が素朴な光を放っている。俺

は「へえ、若いのに」と言った気がする。でも、それは間違った物言いで、何故なら森雅之のマンガは今でも若いままだからだ。ずっとだ。
 その森雅之が「MM文庫」を久々に復活させた。商業単行本未収録作を、簡易な装丁で見せてくれる個人発行のシリーズ。『ひるね物語』(2009年/カレンブックス)が、表紙の紙色や裏表紙のケー(森雅之の創作した犬に似たいきもの)の大きさをちょっと変えて増刷。これに、新刊『薄荷のプリズム』(2015年/同)が加わった。80年代に、雑誌「天文ガイド」に連載した、夜空から届く

絵葉書のような連作を集めたもの。現在も続く「天文ガイド」と森雅之の相性は抜群で、多くの天文ファンが森雅之の宇宙にも通じていることは、見事な構図としか言いようがない。どれをとっても、そこに「きれいごと」や「泣きごと」はなく、ただただ強固なナイーヴがある。作品そのものが、黒目がちに潤んでこちらを見つめている。ベテラン作家が、個人的に作品をまとめて読者に届ける行為には、確固とした理由があるに違いないが、ついつい安定したイメージを持たれてしまいがちな作者の、その可能性の自由な場に、ファンとしては無茶な想いも馳せる。いつまでも新人のような森雅之だからこそ。「麻薬カルテル」なんて言葉の入った雑文で紹介するのは忍びないけれど。
(足立守正=マンガ愛好家
MM文庫『ひるね物語』(100P/白黒/¥1000+税)、『薄荷のプリズム』(88P/¥1000+税)。購入はこちらから。