2015年11月6日(金)

 
長崎学のススメ『長崎の漫画家1 清水崑』


 「かっぱっぱルンパッパ♪」あまりの嬉しさに思わず懐かしのCMソングを歌ってしまいました。誕生日プレゼントに清水崑の「かっぱ絵」を家族に買ってもらったのです。骨董店の店頭で出合って以来、日々「欲しい!」と訴え続け、ついに成就。A2サイズ多彩色の直筆画を安価に購入できたのは地元ゆえの特権です。
 さて、崑さんの代名詞で

ある「かっぱ絵」ですが、最初から持ちネタだったわけではありません。デビューから数えて十九年目の昭和二十五年、火野葦平の小説『河童』の装幀を依頼されたのがきっかけでした。かっぱなど描いたことがなかった崑さんは、その道の大家小川芋銭の『河童百図』を買い求め、研究した結果あの「崑かっぱ」を生み出したのです。翌年、小学生向けの雑誌に動物モノをと

頼まれた際、それじゃというので「かっぱ川太郎」を連載したところ、子どもではなく「大人がこぞって読む」という現象がおきます。そこに目をつけた週刊朝日が大人向けの『かっぱ天国』の連載を崑さんに依頼しました。これが大ブームに。昭和三十年からは黄桜酒造のキャラクターにも起用されたのです(崑さんが亡くなった四十九年以降は小島功にタッチ)。
 かっぱ以前の崑さんは「政治漫画」の人でした。もっとも本人は政治に興味

がなかったのですが、小林秀雄にごり押しされ『新夕刊』に連載したのが始まりです。二十三年からは『朝日新聞』で連載するのですが、この時期首相だったのが吉田茂。崑さんが描くユニークな吉田のカリカチュアは大評判で、首相本人も大変気に入っていたそうです。ところが崑さん、岸信介が首相になった途端「岸を素材にして絵を描くこと自体に興味を失った」といって政治漫画から身を引きます。なるほど、吉田茂のキャラと風貌は実に漫画向きですが、岸信介はいかにも「政治家」でユーモアとペーソスに根ざした崑漫画では表現しづらいのかもしれません。では孫の安倍さんは漫画素材としてはどうなのか? 天国の崑さんに聞いてみたいものです。
(高浪高彰=長崎雑貨たてまつる店主)



買い物日記[11]


 10月22日、朝7時に出発して車で羽田空港へ向かった。朝の首都高は混んでいてそこまで行くのに二時間半もかかってしまった。今回、日本へ来たのはインドネシアのサムソン・ポーという29歳のレコードコレクターだった。今年から初めて会ったのは5年ほど前。当時はまだレコードを買い

始めたばかりで、いろいろな音楽を知りたいという欲で溢れていた。中国人の父親、パプア人の母親を持ち、今では勤めていた会社を辞め、パサール・サンタでレコード屋をやっている。今回はそのお店の買い付けで日本へ来たのだ。
 空港へ着くとサムソンは大量の荷物をカートに乗せ、

椅子に座っていた。半年ぶりの再開。初めての日本はどう?日本の匂いはする?と聞くと、うん。やっぱり日本の匂いがするなあ。と答えた。ぼくにはその匂いがわからなかった。
 車に荷物を乗せ、サムソンが泊まる初台へと向かった。サムソンは初めて見る日本の景色に、香港に似てるけど、ゴミが落ちてない。と興奮していた。
 ぼくも初台には行ったことがなかった。周辺まで着くと急に細い道になり、細い道になったかと思うと一方通行が突然出てくる。通れる道は車一台ギリギリ通れるくらいの道。ぐるぐる回って仕方なくコインパーキングに停め、そこからは歩いた。サムソンが泊まる宿に連絡をすると、そこのオーナーは外国人。やっと宿泊所に着くと、古いアパートの前。今流行りの民泊

だった。アパートの中に小さな部屋が3つ。聞くと二週間で5万円だと言う。安く泊まるならここで十分だ。
 少し休憩をして、初台まで歩き、電車に乗って、最初のレコード屋は渋谷のレコファンにした。エレベーターを降りるとずらっとレコードが並んでいる。それを見てサムソンがまた興奮しているのがわかった。レ

コードを手に取り、値段を見て、信じられない。と頭をかかえる。ビートルズ、レッド・ツェッペリン、ジャズの名盤、ほか、そんな有名なレコードが千円以下で買えるのが信じられないと言う。欲しいレコードを抜いて積んでいくとあっという間にレコードの山ができた。さらに一万円以上のお買い上げで送料無料。外

国人はパスポートの提出で免税。ぼくも初めて知った。
 次にディスクユニオン渋谷店へ。ここでもサムソンは、日本人はずるい、と興奮。初日は結局100枚以上のレコードを買っていた。
 サムソンは次の日も100枚単位で買っていき、たった3日で400枚も買っていた。5日目には、もう買い付け用のレコードは十分だ、と言う。それくらい日本で売っているレコードは安い。クオリティーもいいし、もしかしたら日本は今、世界一レコードの安い国なのかもしれない。
 今回、サムソンからはガムランとクロンチョン、イスラム教音楽のレコードをもらった。
 ガムランは仏教の音楽で、最初はジャワ島だけでジャワ・ガムランとスンダ・ガムランがあった。それから仏教の人たちだけがバリに

移り住んでバリ・ガムランが出来たと、サムソンは言っていた。
 クロンチョンにも一枚、面白いジャケットのレコードがあった。日本の天狗そっくりなお面をかぶった人が写る『TIMUN MAS』。調べてみると、インドネシアの昔話のようだった。バリ舞踏でもバパンという、赤顔で鼻の長いお面がある。東南アジアを調べていると、ふとしたところで日本の匂いを感じるときがある。インドネシアの場合、その民族によってそれぞれ違いがはっきりしている。ハワイに近い民族。オランダに近い民族。沖縄に近い民族。民謡を聴いていると言葉がわからなくてもそんな想像かできる。授業で伝統として教わったことが交流として広がっていくのがとても楽しい。
(馬場正道=渉猟家)



居酒屋散歩19《白山・五右衛門》


 今回は白山にある店。白山はいわゆる盛り場ではないので、この界隈でお酒を飲まれる方は多くはないと思う。ただ、この「五右衛門」は創業55年の老舗。豆腐料理の専門店だ。私も通い始めてから30年ほどになる。地下鉄・白山駅から数分の所にあり、店の前の道を、駅と反対の方向に行くと千駄木に出る。いわゆる「谷根千」エリアは私の好

きな散歩地区。
 先日も地下鉄・千駄木で降りて、散歩をしながら店に向かった。千駄木駅前の団子坂をゆっくり上ってゆく。この坂は江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」の「D坂」だ。坂の上の方の左側に、森鴎外の記念館がある。森鴎外が亡くなるまで住んだ家のあった所。観潮楼と呼ばれていたそうで、当時は東京湾の潮の満ち干がこ、

こで見えたのだろうか。記念館には、多くの文人たちとの交流資料などが展示されていた。さらに進み、その先を左に曲がってしばらく行くと、鴎外と並ぶ明治の文豪・夏目漱石の居住跡がある。家そのものは明治村に移されて現在は説明プレートがあるだけ。それによると、ここで漱石はデビュー作の「吾輩は猫である」を執筆したという。
 再び団子坂上にもどり、その先を歩いてゆくと同じく左側に、昔の食堂がレトロ感たっぷりの風情で立っていた。シャッターは閉じたままで、その前は雑草が茂っていた。よごれた看板には「中華、洋食」と大きな文字で書かれていた。今は営業はしていないが、この一見アンバランスな看板の文字が妙に気になった。和食以外のものという意味で付けたのだろうか。今や

っていたならすぐに飛び込んだと思う。歩かれる方がいたら、是非見ていただきたい建物だ。早く行かないと、そのうちに取り壊されてしまうかもしれない。
 そうこうするうちに「五右衛門」の前に出た。商店街の一角にあり、狭い路地のような入り口。この道を進むと、左側が母屋、右側は庭になっていて、はなれ席のある建物がある。明かりがポツン、ポツンと灯された静かな空間。夕方の人通りの混雑するところから、急にタイムスリップした感じになる。冬場は母屋の入り口に小さな焚火がたかれ、暖かさが和ませてくれる。母屋に入ると正面が帳場で、その左側がすぐ座敷席になる。今回は離れの座敷を取ってくれた。
 約束より早かったので誰も来ていない。歩いてのどが渇いたのでビールを飲ん

でいたらイラストレーターのT氏、最後に生協の仕事をしているW氏が相次いできた。
 乾杯をしているうちに、すぐ付きだしとゴマ豆腐が出てきた。豆腐のコース料理で、お酒を庭などを眺めながら飲んで、出てくるものをゆっくり味わう。この日は焼酎をボトルで頼んで、3人でちょうど良い感じ。ちなみに酒はビール、日本酒、焼酎の3種のみ。しかも豆腐料理の間にでる、箸休めの小物が酒の気の利い

た充てになる。「冷やし箱」と品書きにある木の器は、各種の料理を少量ずつ盛ったまさに酒の摘まみの盛り合わせだった。冬になるとこれが湯豆腐に変わる。
 なめこ椀と香の物で茶飯をいただいたころには、焼酎のボトルも空になり、十分満たされた気分になっていた。窓の外を見ると夏に使う開け放った座敷席に明かりだけが灯り、庭に薄ぼんやりとした空間を作っていた。静かな雰囲気で、日本料理を味わった夜だった。
 植物が好きな人には、千駄木と反対側に小石川植物園があり、散策にはもってこいの所だ。これからの時期は紅葉も見られる。数年前に行った時には、奥にある池でカワセミを見かけた。運が良ければ、鮮やかなコバルト色が見られるかもしれない。 
(川村寛=編集者)