てりとりぃ放送局アーカイヴ(2016年1月1日〜2016年1月15日分)

 前回からの続き、レスリー・ダンカン「LOVE SONG」の聴き比べ第2回です。一応時系列で曲を並べてるので徐々に音が新しくなりますが、それでも楽曲の一番印象的なムードとフレーズが失われることは、誰が歌ってもいつどうカヴァーされても変わる事がありませんよね。ちなみにこの曲は邦題もそのまま「愛の歌」で、歌詞中で直接触れている部分はありませんが(恋愛曲ではなく)子供を諭すための歌、と言われることもあります。(2016年1月1日更新分/選・文=大久)


Mike Starrs / Love Song (1975)

 スコットランド出身のシンガー、マイク・スターズはゲイリー・ムーア、ドン・エイリー、ニール・マーレー等が在籍したスーパーバンド、コロシアム2のヴォーカリストとして知られますが、バンド結成以前に売れないソロ・シングルを何枚も出していました。こちらは彼の3作目のシングルで、ドイツとオランダのみで発売されたもの。

Dave Pope / Love Song (1978)

 クリスチャン・ミュージックのクリエイターでもあるデイヴ・ポープが、ポップ路線に思い切り舵を切って製作した78年作。もちろん宗教色濃い楽曲も沢山ありますが、「WE'RE ALL ALONE」なんかに混じってこのレスリー・ダンカンのカヴァーも収録されてました。プロデュースを担当したのはクリフ・リチャードでした。
Morgana King / Love Song (1979)

 いきなりの4ビートで驚きますよね。ジャズ・ヴォーカルの第1人者モーガナ・キングの79年録音カヴァー。本曲収録のアルバム『EVERYTHING MUST CHANGE』はポップ・カヴァーを多く含み、ビリー・ジョエル「素顔のままで」、ジョージ・ベンソン「THIS MASQUERADE」等も収録。同年彼女はビリー・ホリデイのトリビュート・ライヴに出演し、ハリウッドボウルでのコンサートも成功させています。
Barry White / Love Song (1983)

 でました「ベイビーメイカー」、低音ヴォイスのエロ親父バリー・ホワイト。『DEDICATED』(83年)にて「LOVE SONG」をカヴァーしていました。ディスコの時代が過ぎ去り、本作を発表後レーベルを移籍して心機一転の、となりましたが、晩年彼の再評価が高まるまで、20年弱ほどは彼にとって受難の時代となってしまいましたね。
Marianne Faithfull / Love Song (2011)

 さて「LOVE SONG」聴き比べ最後の曲は、マリアンヌ・フェイスフルの2011年録音版です。動画で使われてる画像が、60年代のアンニュイな彼女の写真だというのがちょっと卑怯な気もしますが(笑)、歌っているのは御年65歳(当時)、酸いも甘いも天国も地獄もすべて経験したマリアンヌ・フェイスフルです。2000年以降、結構精力的に活動を続ける彼女ですが、昨年もツアーやったりしてました。思いのほか(笑)元気ですね。
*動画のリンク切れの場合はご容赦ください。




 初期パンク特集をやります。といってもパンクの有名曲をダラダラと並べたのでは芸がありませんね。当放送局担当者なりに考えた結果、ちょっとアカデミックな動画を並べてみようと思います。初期パンクがどんなカンジで広まっていったのか。それをクラッシュ&ドン・レッツとの関わりと共にご紹介してみたいと思います。パンクが実は黒人音楽と非常に関わりが深かった、ということを発見していただけたら幸いです。(2016年1月8日更新分/選・文=大久)


Notting Hill, Ladbroke Grove Riot - London, 1976

 まずはこちら。1976年のノッティングヒル・カーニバルの映像です。すっごく乱暴に言ってしまえばノッティング・ヒルのカーニバルは浅草・三社祭みたいなとても歴史・文化的な色彩の濃いカリビアン・カーニバルなのですが、動画からもその様子は伺えると思います。BGMにカリプソが流れてますが、そういう意味で至極正しい選曲です。しかし76年、この地で大きな暴動が発生してしまいました。

The Clash talking about the song "White Riot"

 そのノッティングヒルの暴動の模様を扇動的に楽曲にしたのがクラッシュの「WHITE RIOT(白い暴動)」であることは有名ですよね。こちらはクラッシュのメンバーがその「WHITE RIOT」と76年のノッティングヒルの暴動の模様を語るドキュメンタリー動画。クラッシュは「扇動者」と見られることを嫌っていました。それ故あまりこの暴動に関して語る機会は少ないので、ちょっとだけ貴重な動画でもあります。


The Clash / Justice Tonight/Kick It Over

 クラッシュのダブ・レゲエ曲。クラッシュがレゲエに染まったのは、彼らの親友でもあったドン・レッツによるところが大きいのですが、この曲を収録した「BLACK MARKET CLASH」のジャケは、前述した1976年のノッティング・ヒルの暴動の最中、機動隊と対峙するドン・レッツの写真をあしらったものであることは有名です。実は当方は数年前にドン・レッツにインタビューする機会があったのですが、彼もまたあの暴動のことを口角泡を飛ばして喋るタイプの人ではありませんでした。当事者のほうがかえって冷静なんでしょうね。

Punk, Reggae, Roxy and Don Letts

 ドン・レッツは映画監督でもありますが、70年代後半は映像よりもアーティスト・マネジメントに多くの時間を割いた人物でもあります。彼が手がけたスリッツをメインに、当時のパンク・シーンを描いたドキュメンタリー動画です。ドン・レッツ本人の弁によれば「パンクの90%はゴミ。でも残りの10%は素晴らしい」とのこと。うん、上手いこと言いますね。ちなみに彼の述懐によれば「スリッツはもうとんでもない集団だった。ステージ上でもステージを降りても同じようにハチャメチャ」。

Big Audio Dynamite / E=MC2

 ドン・レッツはアーティスト/ミュージシャンとしても活動しましたが、彼の作った音楽をジャンル分けすることは出来ません。あえて言うなら「パンク」ですが、今多くのパンク・ファンの耳にはそう映らないでしょうね。こちらは彼が正式メンバーとして参加したビッグ・オーディオ・ダイナマイト最大のヒット曲。クラッシュのメンバーにヒップホップ文化を叩き込んだのもドン・レッツの差し金で、そしてピストルズ解散後のジョン・ライドンをジャマイカに連れて行ったのもドン・レッツ。そう、実は初期パンクの裏番長だった人なんです、この人。


*動画のリンク切れの場合はご容赦ください。




 イギリス・リヴァプールのお話です。とはいえユルゲン・クロップ氏を迎え入れたリヴァプールFCの話でも、ビートルズの話でもありません。かの地が生んだチョイとアタマのオカシな音楽家・ビル・ドラモンドとその周辺にタムロしたミュージシャン達を特集してみようと思います。以前タイムローズ「DOCTORIN THE TARDIS」特集をやったこともありますが、そちらも併せてお楽しみいただければ幸い至極に存じます。(2016年1月15日更新分/選・文=大久)


Big In Japan / Taxi (1978)

 ビッグ・イン・ジャパン。なんと素敵なバンド名でしょうか。リヴァプールの地でロクデナシ達が集まってできたパンク・バンドですが、「このバンドを抜けると皆有名人になれる」というヘンテコなジンクスもあります(笑)。ギターを弾いてるのは後にエコバニ、フォール、アイシクル・ワークス、シャック、そしてライトニング・シーズと渡り歩いたイアン・ブロウディー。ベースを弾いてるのはフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドで一世を風靡したホリー・ジョンソン、バンドのリーダーはビル・ドラモンドで、彼が興した自主レーベルZOOからの発売でした。

Echo and the bunnymen / The Pictures On My Wall (1979)

 バンドは早々に分裂しますが、ZOOレーベルからエコー&ザ・バニーメンというチョイキモな新人ニューウェイヴ・バンドがデビューしました。こちらが彼らのデビュー・シングルで、後にアルバム『CROCODILES』に収録されたものとは別バージョンになってます。プロデュースはもちろんビル・ドラモンド。

The Teardrop Explodes / Sleeping Gas (1980)

 ビル・ドラモンドはリヴァプールの町をフラフラしてるある美少年に目を付けました。それがジュリアン・コープという青年でしたが(笑っちゃいますが、これジュリアン・コープ自らそう発言しています)、彼をフロントマンとしたバンド、ティアドロップ・エクスプローズをZOOレーベルからデビューさせています。ちなみにこのバンド、初期ザ・スミスのプロデューサーでもあったトロイ・テイトも参加しています。
Strawberry Switchblade / Since Yesterday (1984)

 そんなワケで自らがフロントに立つ訳ではなく、裏方としてリヴァプールの音楽シーンを闊歩したビル・ドラモンドでしたが、その手腕が買われて80年代には英ワーナーで外部ディレクターとして雇われることになりました。そしてぶっ放したのがなんとストロベリー・スウィッチブレイド(!)。素晴らしいですね。彼女達はグラスゴーの出身なのでリヴァプールとは関係ありませんが、ドラモンド自らマネージャーも買って出、ワーナーで大成功を収めた2人組です。
Brilliant / It's a Man's Man's Man's World (1986)

 そしてこちらも同じく英ワーナーでビル・ドラモンドがA&Rを担当したユニット、ブリリアント。元キリング・ジョークとか元アイスハウスとか、周囲の音楽家をかき集めて作ったユニットで、残念ながら大したヒットには至りませんでしたが(全英58位)、このレゲエ・ポップ曲は実は記念碑的な作品でもあります。それはこの曲は後に世界中を席巻するあのストック・エイトキン&ウォーターマンが初めてプロデュースを担当した曲だったからです。
Bill Drummond / Julian Cope Is Dead (1990)

 その後、ザJAMS、タイムローズ、そして世界的大成功を収めたKLFと自身の活動を活発化させ、そして業界中から叩かれまくったビル・ドラモンドでしたが(笑)、KLFが世界中で大騒ぎだった最中の90年、なんとあのクリエイション・レーベルから自身のソロ作品を発表しています。しかもこんなフォーキーでオチャラケた内容でして、曲のタイトルももうビンビンにふざけてます(笑)。最高ですね。どうもドラモンドとジュリアン・コープの間柄は「最悪」の類いのようでして、お互いにケチョンケチョンに言い合いまくっています。

 最後に余談となりますが、ドラモンドは05年以降5年連続で毎年「NO MUSIC DAY」というイベントを主催しています。イベントとは言っても大したことはしないのですが「音楽のない日」を提唱し各メディアに「音楽をかけるな」と主張しデモ活動を行なっています。本人いわく「一切の音楽が存在しない1日。それがあって初めて人間は必要な音楽が何かを真面目に考える事ができる」。うん。どこも間違ってはいませんよね。素晴らしいです。



*動画のリンク切れの場合はご容赦ください。